品質基準が保たれているかどうか

売っているすべてのモノには、「売ってもいいかどうか」というラインを乗り越えたという実績があります。それは「モノを売る」という行為に「責任」が伴うからです。

システマチックに生産が可能な工場などでもその「基準」はあります。全自動の生産システムであっても、不良品というものは発生するおそれがあるのです。ですから、モノを生産して供給するということは常に「不良品」との戦いなのです。「買ってもらう」ということは尊いことです。そのアイテムが、仕様に際して安全かどうか、求められている、または販売時に提示した仕様を満たしているかどうかということは、順守しなければいけないのです。

私たちは自分が使うすべてのモノを自分で作るわけにはいかないのです。自分で使っているアイテムのことごとくが、どこかで「買ったもの」であるはずです。誰かが作り、さまざまな商流を経て、販売者の手に渡り、それを買うことになったのです。それを買う時には理由があったはずです。「仕事のために高度なパソコンが必要だ」ということであるとか、速く走るために軽い靴が必要だ、ということであるとか、安全運転が可能な自動車が欲しいというような「希望」です。そして、価格と照らしあわせてそれらの希望がどれだけ満たされるかということを考えたはずです。

もちろん、価格差は性能の差でもあります。自分が期待した要件を満たすものは高いものです。より良い機能を使用したい場合、さらに高くなってしまうこともあるかもしれません。ですが、「それ以前」の問題ということもあります。

例えば「パソコン」を購入したとします。いざ使用しようとして、電源を入れてみたけれど何も反応しない。そのようなことになってしまえばどうでしょうか。購入したものは「パソコン」であったはずなのですが、電源がはいらなければただのゴミです。高い費用をかけてゴミを買ってしまったというわけです。とても納得できるハナシではありません。これはそのようなモノを供給した製造元に責任があります。費用を払っている以上、責任を持ってそれらの商品を交換するなど、誠意ある対応が必要です。

工場で作られるようなアイテムですら、多少の「個体差」はあるのです。多少の「ムラ」があるのです。ハンドメイド品はそれがさらに顕著であるはずなのです。その「差」が「個性」と呼べるほどのもので、そこに「価値がある」ということであればいいのですが、使用に際して不便を感じるレベルであれば、それは「不良品」です。人間は工場の生産システムほど便利には出来ていません。その日の体調、その日の精神状態によっても、仕事は左右されます。だからこそ、品質基準を満たしているかどうかを注意深く観察する必要があるのです。もちろん、そのようなことは販売されるに至るまでにチェックされているはずのことではあります。ですが、どのようなチェックも万全ではないものです。大企業の整ったシステムですら、不良品を出荷してしまうことを止められない場合もあるのです。

ハンドメイド品を購入する際、それが「ハンドメイドだから発生した個性」なのか、それとも「使用に耐えない欠陥」なのか、それを見極めることが大切なのです。