ハンドメイドはなぜ好まれるのか

ハンドメイド品が好まれる理由はいくつかあります。それは大量に生産できない細かな表現が可能であること、そして希少であること、「ブランド」として確立された、誰もが価値あるものと認めている場合などです。

私たちの生活は現在、「利便性」を極めつつあります。便利であることは良い事であるとして、さまざまな技術や道具が私たちの身の回りに溢れています。遠くの人と話しができる「電話」であるとか、どこにいてもどのような情報でも得られるインターネットなどがその代表です。さらにはそれらの「インフラ」をもっと便利にするための技術が、私たちのまわりでは溢れているのです。私たちはそれらの技術や道具を「当たり前」のものとして生きています。それらがなければ「生きていけない」というほど、それらの技術に依存し、またそれらの技術を媒介として新たなビジネスを生み出したりしているのです。

このまま技術開発が進めば、私たちは一歩も家を出ることなく、世の中のあらゆるものを知り、そして「実行力」を持って社会に参画することができるようになるかもしれません。それを「便利」と感じるか、それとも「おぞましい」と感じるかは人によるとは思うのですが、技術というものはゆるやかに発展していくものです。私たちは知らず知らずのうちに「自分で動かなくてもいい」というモノを受けていれているのです。例えば全自動掃除機の「ルンバ」などはその典型です。ホウキとチリトリから始まった「掃除」は、やがて機械化された吸引力を持つ「掃除機」へと発展し、その掃除機は、今度は全自動という新たな機能を手に入れたのです。それはまるで私たちから「動くこと」を奪うような流れです。

そのような技術発展が今度も進んでいくとすれば、やがて私たちは考えなくてもいい、何もしなくてもいいような存在になってしまうかもしれません。そうなると私たちの生きている意味というのはどこにあるのか、わからないのです。先進の技術を生み出す一部の人を除いて、私たちは何もしなくても良くなってしまうのでしょうか。

そのような漠然とした不安を一気に打ち破るものがハンドメイドのアイテムです。明らかに作った人の意志がそこに込められたアイテムは、私たちに「人間の仕事」を再認識させるものです。私たちの生活に確固たる存在感として登場するそれらのハンドメイド品は、私たちに「人間の技術」を改めて思い知らせてくれるのです。私たちはそれらのアイテムを手にすることで改めて「人間にしか出来ないことがある」ということを知るのです。私たちはそれらを感じることで、人間でいることに「誇り」を感じることができるのかもしれません。

機械が私たちに反旗を翻すなどというのはSFの中で語られることではあるものの、確実に機械化によって仕事を奪われた人がいますし、それによって失われた人のあたたかみというものもあります。現代に残るハンドメイド品は、そんな私たちに改めて「人の存在感」を感じさせてくれるものなのではないでしょうか。だからこそ、人が作ったものを好むのではないでしょうか。私たちは本能的に、「誰か」を感じていたいものなのではないでしょうか。だからハンドメイドが愛されるのです。